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以前に安土考古博物館の常設展に「築城にまつわる話」として下記の石の話が紹介されて
いましたが、その後に模様がえされたので現在はないかもしれません。

「安土城を築くため信長は石仏など多くの石を集めました。記録によると大きな石を上げるために数千人の人が必要であったといわれ、
なかでも
「蛇石」と呼ばれる銘石は
7千人の人が昼夜を問わず引き上げたが、上がらず150人もの人が下敷きになり死んだそうです。
今この石がどこにあるかわかっていません」


★「蛇石」の話は信長公記の天正4年の”安土御普請の事”に津田坊という人が 運んだことが記載されている。しかし、これには150人が下敷で死んだ話はで ていない。

★フロイス日本史4(川崎桃太.松田毅一訳.中央公論)第33章の「信長がその統治の過程で行った他のことどもについて」には、「蛇石」とは記されていないが、特別の一つ(石)として150人以上が下敷きになり死んだ話が述べられている。二つの話をつなぐと「築城にまつわる話」となる。

★「蛇石」とはどんな石かわからないが、蛇紋岩という石ならある。一般的な特徴は暗緑色塊状のものが主であるが、繊維状の岩もある。 つるつると滑らかで、蛇の皮の紋様みたいな岩もあり、不規則な塊状をしている。また蛇紋岩の成分の一つであるクリソタイルは石綿の一種であり、これは、じん肺を 誘発する。私が関係している労働衛生とか職業病の分野では時々耳にする。

 ★蛇紋岩の産地
  安土に近い蛇紋岩の産地について、原色岩石図鑑で調べて見ると、愛知県.新城市と繊維状蛇紋岩(京都.宮津)が該当する。運ぶ時に滑りそうな石  は愛知県.新城市の石のように思う。愛知県というと、信長と関係がでてきそうだが、こんな遠くから大石を運んだか疑問もでてくる。

          参考書籍

1 信長公記:太田牛一(桑田忠親 校注).新人物往来社
2 フロイス日本史4:川崎桃太.松田毅一訳.中央公論社
3 織田信長と安土城:秋田裕毅.創元社
4 安土城 [歴史群像]名城シリーズ.小学館
5 原色岩石図鑑:益富壽之助.保育社
6 理化学事典 岩波書店


この消えた蛇石は信長公記では「一万人の人数で夜昼3日で上せられた」と記されている
ので天主台の下に埋められたのではとの説もあるが、調査では埋める余地はない
と判断されている。

上記の記述を天主台まで上げたと解釈されているようだが、実際は中腹まで上げた
のかもしれない。天主台まで上げる特別な理由も見当たらない。
大石としての
蛇石が消えることはないと思うので、何処かにあると考えられる。

蛇石のヒントは信長公記の記述から、坂道を転がるような巨石と何かが
結びつくのであろう。そこで、以前に安土城跡で見られる巨石一覧試みたので、
今度は見方を変えて掲載した。

巨石全体

角度を変えると鼻まで
蛇に酷似

目と口の部分
人為的な加工の痕跡も感じられる。
こんな偶然に蛇頭酷似の自然石は
考えられない。
蛇石と考える方が普通と思う。
百々橋から上がって仁王門へいくまでの
石段の右側にある。写真を撮るとき、もし落ちてきたら、どうしようか心配な気持ちになる。

ところで
なんとなく蛇の頭に見えませんか?
など?

この蛇の頭に酷似の巨石は
自然石? 蛇石?

蛇頭に酷似であることは誰もが理解される
と思う。蛇石と考えてもよいと思う。

遠い将来には蛇石発見として新聞を
見ることになると思う。



最も低い位置にあり
百々橋の上口すぐ右側

百々橋から上がって仁王門へいくまでの石段の右側にある。
表面が平らで加工が施されているように思う。

百々橋から上がって仁王門へいくまでの石段の右側にある。厚みはあるが、平べったい大岩。

百々橋から上がって仁王門へいくまでの石段の左側にある。
これが一番大きいように感じる。

二の丸の上がり口にある。

「蛇石」の話のところには、
必ずこの石の写真がある。

「蛇石」と称する石として参考に載せた
だけ、とのこと。
大石といえば大石かもしれないが、
ここに掲載した大石のなかでは
小さい方である。


百々橋から上がって仁王門へいくまでの石段の右側にある。渋柿の形をしている。

百々橋から上がって仁王門へいくまでの石段の左側にある。一つの岩であるが、写真では、三つの石が重なっているように見える。

百々橋から上がって仁王門へいくまでの石段の左側にある。

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黒金門の石垣に見られる大石