天正13年(1585) 豊臣秀次 築城



眼下に琵琶湖が一望、八幡城 西の丸跡
  

豊臣秀次は秀吉の姉の子で天正13年(1585)に八幡山山頂に本丸、二ノ丸、西の丸、北の丸、中の丸を構え山麓には居館や屋敷を設け商業においても才能を発揮し活躍が認められてきました。天正19年(1591)に秀吉の嫡男・鶴松が死去したため、秀吉の養子となり関白職を継ぐことになった。しかし文禄2年(1593)秀吉に次男、秀頼が生まれると文禄4年(1595)には謀反の疑いをかけられて高野山に追放され、7月15日には28歳の若さで切腹を命じらてた。
8月2日には秀次の遺児4男1女と正室・側室39名が京都の三条河原で処刑され、関連した大名はお家取り潰しされた。
粛清の理由には正室・側室39名もいるなど女狂いなど奇行説もあるが定かではない。

  
 

八幡山 頂上に八幡城跡

八幡掘の橋 対面が入口

八幡掘

撤去するのしないの問題となった橋

日牟礼八幡宮

大人片道400円 往復700円

昭和36年に本丸跡に、京都の瑞龍寺本堂が移された
この寺は秀次の母、日秀尼が秀次の菩提を弔うため、
天皇の勅令を得て嵯峨野の村雲に創建した寺で村雲
御所とも呼ばれている。

北の丸跡、ここからは安土方面が一望できる(下写真)



 

八幡城北の丸跡 より、正面の山は安土山、観音寺山(繖山きぬがさやま)箕作山が一望

八幡城西の丸跡より

八幡城本丸跡より雪野山、瓶割山、鏡山が一望