信長誕生の1534年 室町幕府開設、日本の中心だった!!


六角佐々木氏の概要
佐々木氏の系譜:第59代宇多天皇の第8皇子 敦実親王(893-967)の 三男、源雅信(920-993)を祖とする。
近江に住み着いたのは雅信より2代後の成瀬の時で、その孫の経方の代に近江佐々木庄小脇(八日市市)に、居住を定めた。
歴史の表舞台にでたのは、治承4年(1180)に源頼朝が平家打倒の兵を挙げた時に、秀義の息子5人(定綱、経高、盛綱、高綱、義清)が華々しい活躍をしてからとなる
嘉禎2年(1236)に定綱の息子、信綱の代に財産分けで三男の泰綱が六角佐々木を、四男の氏信が京極佐々木を名乗るようになる、京極佐々木氏は後に浅井氏にとってかわられる。
観音寺城築城の正確な時期は不明であるが、文明3年頃(1471)には、ほぼ完成されていたと推測されている。
応仁の乱の後、佐々木高頼の時に権力強化を目指したことにより、将軍の反発を受けて1487年には9代将軍義尚から、1491年には10代将軍義稙から追討されたが 、戦略的に逃亡して相手のスキを見て反撃する戦法で相手の戦意を消失させしのいでいる。
佐々木高頼の時代には長男の義実が11代将軍義澄と妹と祝言を挙げる(1498年)など、将軍家との関係を深める。
佐々木定頼の時には娘と管領細川晴元との祝言(1537年) 日本初の楽市楽座(1549年)など六角の最盛期を築く。
永禄6年(1563)に観音寺騒動が起こる。家督を継いだばかりの19歳の 義治が重臣の後藤親子を殺害したことから、六角主従の結束が弱まり、衰退の兆しが早まる。
永禄11年(1568)に信長が佐久間信盛と木下秀吉を大将として、箕作山城 を攻める。箕作山城陥落して 義賢、義治父子は逃げる。
観音寺城は落城したとされているが、昭和44、45年の発掘調査で全山にそのまま石垣、石段、排水溝、井戸等が発見されている。
山頂の本城跡からは焼土層がみつからないことから、当時はまだ本城は焼けていなかったことが確認されている。

六角佐々木氏の概要


観音寺城跡の模型  滋賀県立安土城考古博物館蔵      マウスをあてると位置

六角佐々木氏の概要


国道8号線西老蘇の信号を曲がり観音寺山(きぬがさ山)林道(有料)へ進む
但し冬期は3月中旬まで林道(有料)は通行止めです



観音寺城のきぬがさ山(観音寺山)と安土山


観音正寺の手前に城跡へ向かう道がある(下の写真)


観音正寺に向かって左下に城跡へ進む石段がある


標識によると観音正寺から城跡までは330m


六角佐々木氏の概要

六角佐々木氏の概要

六角佐々木氏の概要


この大遺構は城主佐々木六角氏の
山下に構えた本拠地への石段であるが、世間に知られていないのが不思議。
入口に天満宮となっているが観音寺城が滅びたあとに他からこの地へ遷座したもので、この石段は観音寺城当時の
遺構とされている。

御屋形跡への入口

本拠地入口に天満宮の標識、大石段は正面右

大石段を登りきったところに御屋形の標識

石段上がって右側

石段上がって左は竹藪、敷地全体の広さは約3600u(1090坪)でほぼ正方形
城主の館として豪華壮大であったことがうかがえる。

御屋形跡から見た石垣

御屋形跡を下から見た石垣、高さ6mもある
 
六角佐々木氏の概要

写真 図@
 

観音寺山の標高は440m、この本丸は標高395mで面積1950uである。
どんな建物が建っていたのか資料は全くない。手前右側から桑実寺に通じる山道がある。昭和44年に発掘調査は行われたが礎石があまり判然としないのでどのような建物が建っていたか推定は不可能とのことである。 しかし宮廷絵師の土佐光茂が描いた「犬追物の図」が本丸の壁書にあったとの話はよく出てくる。


写真A

写真 大手口石段 上がると写真図@へ
 

この大手口石段の発見が昭和44年の発掘調査での一番の成果とされている。
その時の発掘担当者の感想として「発掘する以前は全く土砂や岩石、腐植土の下に埋没して、その上に雑木や竹、雑草が繁殖し絶対に山の斜面としか見受けられなかった」と述べられている。


六角佐々木氏の概要

写真B
 

この平井氏は観音城主佐々木六角氏の重臣で6家老、即ち、平井加賀守定武・後藤但馬守賢・進藤山城守貞冶・目加田摂津守清綱・蒲生兵衛太夫賢秀・三雲三郎左衛門の一人である。
この平井加賀守定武の娘は小谷城主浅井長政の妻として小谷城にこし入れしていたが、その後政略により長政は織田信長のお市と結婚することになり、平井氏の娘は送り返されたことはよく話に出てくる。
この郭では泉水、庭、座敷、茶室跡が認められており、現在は観音正寺の墓地の一部になっている。


写真C
 

佐々木六角氏の重臣は近江に城を構えていて、ここ観音寺城に屋敷をもっていることが多い。
平井氏は愛知川に城があったと伝えられている。


写真 図E
 

この写真はよく出てくるが落合丸から撮した平井丸なのです。


六角佐々木氏の概要

写真 図D
 

三の丸の上に大手口石段があることから、池田丸→落合丸→平井丸→三の丸→大手口石段→本丸と続く経路が大手道ではないかと推測できる。

六角佐々木氏の概要

写真 図F
 

面積は約2000u本丸1950uより少し広い。ここでの礎石はほとんど整然と残っているので建物の規模と輪郭を推測することは可能と されている。池田氏は佐々木家の旗頭・七手組.魁(さきがけ)として代々武功をあらわした名高い家柄である。
本家は甲賀郡池田家であるが、分家の蒲生郡池田家が圧倒的に勢力をもちここに郭を有している。

 


写真 図G

写真 図H

六角佐々木氏の概要

六角佐々木氏の概要

織田信長が誕生したその時、観音寺城はどのようであったのか。信長と結びつけると多くの方は興味を持つので、あえて結びつけたのだが年齢構成を理解する上からも好都合だと思う。

信長は1534年5月12日尾張の那古屋城で誕生した時、安土では第12代将軍 足利義晴が観音寺城内の桑実寺内に室町仮幕府を開設しており、6月8日より10日まで3日間にわたりここで近衛尚道の娘と将軍義晴の結婚式が盛大に行われた。

その娘との間に生まれた長男が後の
第13代将軍 足利義輝、彼は将軍の地位にあるが剣聖 塚原ト伝から奥義の伝授を受けた剣豪であり、腕が災いしてか、松永久秀の二条城襲撃の際に 壮絶なチャンバラ してそのあとに死をとげている。

将軍がチャンバラした例は長い歴史のなかでも彼ぐらいである。次男は第15代将軍 足利義昭、織田信長の擁立で将軍となったが、信長から九箇条の「殿中御掟」を突きつけられ、これに不満を持ち二度に渡り信長に逆らって挙兵したが捕らわれて追放される。

室町幕府最後の将軍として義昭は信長と共にドラマでもよくお目にかかる、知名度抜群の将軍である。

観音寺城最盛期の一時期でもある。今では考えもおよばない寂れた場所であるが当時は佐々木六角氏本拠地として近江の中枢であり、天下掌握、戦略の要衝となっていた。


六角佐々木氏の概要
 


室町仮幕府跡(桑実寺敷地内 )1


室町仮幕府跡(桑実寺敷地内 )2


室町仮幕府跡(桑実寺敷地内 )3


六角佐々木氏の概要

六角佐々木氏の概要
 


六角佐々木氏の概要
 


桑実寺の室町仮幕府施設が竜王に移転


正覚院(室町仮幕府施設)


桑実寺の子院、足利将軍義昭の仮寓寺院であったことが記載


正面


六角佐々木氏の概要
 



室町仮幕府正覚院との関係が記載



東南寺 正面



東南寺 本堂

 


天文三年六月八日江州於桑実寺御台様むかへに御記録目録

結婚式に佐々木義実、義秀親子が参列

これで義実の実在が証明!!
 


佐々木研究を集大成した公的書籍である近江蒲生郡志には
「義晴桑実寺に結婚式を挙ぐ」と題して「御台向之御祝記録」「天文三年六月八日江州於桑実寺御台様むかへに御記録目録」を参考文献として結婚式での料理と参列者が記載されている。
その 古い記録資料には結婚式の参列者について下記のように記述されている。
 


六角殿えほしにて御参、御色直ニハ四郎殿親子御参、十合十荷御進上之、御一献参
 


結婚式が行われた
1534年、この時の各人の年齢を調べると六角殿と四郎殿 親子が誰だか推定できる

 ★高頼 (1520年死没)
 ★氏綱  (1518年死没)

 ★定頼       39歳
 ★定頼の子 義賢 13歳
 ★義賢の子 義治 生まれていない(1544年生)

 ★義実            24歳
 ★義実の子 義秀   2歳
 

 佐々木哲著 「佐々木六角氏の系譜」
及び沙沙貴神社本より年齢を算出


義実、義秀は不在とされているので生年月日は存在しないのであるが、生存説をとっている佐々木哲著「佐々木六角氏の系譜」及び「沙沙貴神社本」を参考に1534年時の年齢を算出してみた。
「佐々木六角氏の系譜」では義実24歳 義秀2歳となる。一方の「沙沙貴神社本」でも義実24歳と一致するが義秀の生年月日は天文6年(1537年)なので生まれていない。

従って、1534年時では高頼と氏綱は死没しているので、
六角殿は定頼39歳となり四郎殿親子義実24歳その息子の義秀(2歳)(佐々木六角氏の系譜)と推定できる。

現代風に書き直すと「佐々木定頼は烏帽子を被り参列し、御色直しには義実、義秀の親子が参列してお酒十合十荷を贈り祝意を表した」となる。
しかし近江蒲生郡志の著者は義実は実在しないとの信念から「定頼はその子四郎義賢と共に酒肴十荷十合を贈り祝意を表したり」と解説しており、
「四郎殿親子」が13歳の義 賢になってしまっている。

この近江蒲生郡志は大正11年発行、全部で10巻で構成され、滋賀県蒲生郡役所発行 であるから今で云えば県教育委員に通じる公的な書籍である。佐々木関係は第2巻に968Pも費やして詳細に記載されており、この近江蒲生郡志が通説となってしまったので歴史研究家の殆どは義実は実在しないと理解しているようである。

佐々木哲著「佐々木六角の系譜」では上記の将軍義晴の桑実寺仮幕府での結婚式参列の「四郎殿親子」及び「長命寺結解」、「鹿苑日録」など多くの資料からから義実の実在を証明している。

その他、義実の実在を証明している資料として田中政三著「近江源氏」では「犬追物の図」、「佐々木近江守義秀の軍功状」、「浅井三代記」、「淡海地誌」、「大日本野史」の記載から又滋賀県野洲群教育会 昭和2年発行「野洲群史」も近江蒲生郡志と同様に公的書籍であるが「守山市東光寺の義実の墓」から実在を証明している。

最も信用できる
沙沙貴神社神主家蔵版「宇多源氏 佐々貴一家流々名字之分系」では義実及び義秀について詳細に 記載されているのであるから一般的には実在すると思い込むのだが、系譜の世界では記入されているだけでは証明にはならないとされている。

義実が実在するか否かで1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて上洛した織田信長への対応や、また偽物とされてきた沢田源内の18巻にも及ぶ観音寺城内での出来事を記載した 「江源武鑑」が注目を浴びることになり、新たな歴史解釈から極めて大きな再発見が見いだせる。

義実不在(通説)の見方をする先生方は義実の生存の根拠となる文献は全て偽物と判断してしまうが、先に述べた「犬追物の図」は土佐光茂が描いている。土佐光茂は当時では超一流の宮廷絵師であり、1532年に将軍足利義晴が桑実寺に寄贈した絵巻も土佐光茂が描いている。「犬追物の図」は本物であることは 確認されている。 絵の中の文書だけ偽物と判断してしまうのだろうか。
 

結婚式に佐々木義実、義秀親子が参列

 

 

六角佐々木氏の概要

六角佐々木氏の概要

1518年 氏綱が亡くなり義実8歳が家督を相続して
箕作城主の定頼はその
後見役となる。
定頼が家督を相続する
1552年 定頼が亡くなり義賢31歳は箕作城主として引き続き
義実の
後見役となる。
義賢が 家督を相続する
1546年 義実が37歳で亡くなりその子、義秀 9歳が家督を相続する。
義賢は
後見役となる。
(年齢は沙沙貴神社本参考)
1558年 義賢は隠居して承禎と名乗る。
その子14歳の義弼(義治)は箕作城主となる。
義弼(義治)が家督を相続する
1563年


観音寺騒動勃発、19歳の義治が重臣の後藤但馬守賢豊父子を殺害する。
 

観音寺城の義秀派と箕作城の 承禎・義治派の対立が更に深まる。 一族の団結が弱まり衰退に向かう
1568年

 

織田信長が足利義昭を奉じて上洛する時に近江の通過を観音寺城の義秀派は容認するが箕作城側の承禎・義治派は拒否する。佐々木一族が2派に分裂する。 織田信長の近江の通過を拒否する
箕作城が信長に攻撃され落城して承禎・義治父子のみ逃亡。観音寺城の義秀派は信長と同盟関係となる。
したがって、観音寺城はそっくりそのまま壮大な石垣までも残っている。
箕作城が陥落されるのを見て承禎・義治父子は
観音寺城から逃亡する。
佐々木六角氏滅亡


何故、安土の桑実寺に室町仮幕府が?これまでの経緯
何故、安土の桑実寺に室町仮幕府が?これまでの経緯
 

1493年

明応2年

第10代将軍の足利義稙が管領 細川政元に追放されて、足利義澄(義晴の父)が第11代将軍に就任する。

1498年

明応7年

将軍義澄の妹と六角高頼の長男 氏綱が結婚する。高頼の娘も将軍義澄の継室となって将軍家との結びつきが深まる。

1507年

永正4年

細川政元は澄之に加えて澄元と高国の三人の養子を迎えたことでお家騒動が勃発。
澄之の家臣が政元を暗殺して澄元も都から追放する。(高国は養子でない説もある)
細川高国は澄之を討伐し、澄元が細川家の家督を継承する。

1508年

永正5年

追放された足利義稙が周防(山口県)の大内義興に擁立されて京に攻めてくると細川高国はこれと結んで現将軍の足利義澄と細川澄元を追放する。
足利義澄は佐々木高頼の近江へ逃げる。
これにより前将軍の足利義稙は再度将軍として復活する。
細川高国は細川家の家督を獲得して更に大内義興と共に幕政を独占する。

1511年

永正8年

3月足利義澄の逃亡先、佐々木高頼指揮下の九里水茎 岡山城(近江八幡)で亀王丸(後の第12代将軍足利義晴)生まれる。
8月に足利義澄死没。
9月に九里備前守水茎岡山城は六角高頼に殺害される。
(その後、まもなくして亀王丸(義晴)は播磨(兵庫)へ移り赤松義村の下で養育される)

六角佐々木氏の概要


ここで第12代将軍足利義晴は生まれた


この城は干拓前には琵琶湖に浮かんでいた



頂上へは土砂崩れで道は崩壊されていた
登頂を試みたが断念した



第11代将軍足利義澄はここへ逃亡し死んだ
山の中腹からの風景

1518年

永正15年

大内義興が周防に帰ると細川高国は将軍足利義稙と対立し始める。
佐々木氏綱が死没してその子、義実(8歳)が家督を継ぐ。
(通説では義実は実在しないので、この時点で定頼が家督を継ぐ)

1520年

永正17年

佐々木高頼死没

1521年

大永元年

細川高国は将軍足利義稙を阿波国へ追放して、足利義澄の遺児、亀王丸10歳(足利義晴)を播磨・赤松義村から迎え、元服させて第12代将軍に就任させる。

1527年

大永7年

細川高国の家臣香西元盛が高国の従兄弟細川尹賢に殺された事件が起こり細川家の家騒動勃発。
香西元盛派の波多野稙通と柳本賢治らが三好元長と細川晴元(高国が追放した細川澄元の子)らと組んで将軍足利義晴の弟、足利義維を堺公方として成立させて挙兵する。
これより1532年までの5年間、三好元長及び細川晴元らは堺の顕本寺を拠点に京都、近畿を実質的に支配する。

1528年

大永8年

将軍足利義晴は定頼のもとへ逃げる。
最初は観音寺に近い武佐の
長光寺(近江八幡)に8か月 滞在する。
その後いったん京へ戻るが、戦乱の悪化で今度は 定頼の要請により近江朽木稙綱が
朽木谷の館に3年間保護する。
 現在、興聖寺内境内の一角にその時の庭園がある。(1531年享禄4年まで)


武佐の長光寺(近江八幡)


長光寺の境内

1531年

享禄4年

細川高国が天王寺の戦いで敗れて死没すると、義晴は佐々木定頼の観音寺城へ移る。
佐々木定頼を後ろ盾として観音寺城内の桑実寺管内に
室町仮幕府を 開設する。
義晴は逃亡しているが現時点では依然として正式な将軍である。

1532年 天文元年 足利義晴(22歳)は桑実寺に土佐形部光茂の描いた縁起絵巻2巻を寄贈。

縁起の詞書は後奈良天皇(37歳)とその弟の青蓮院宮尊鎮親王(29歳9及び逍遥院堯空(78歳=三条西実隆)の3人の寄合書となっている


明治43年 桑実寺縁起絵巻として国宝に指定される

1534年

天文3年

6月8日 観音寺城内の桑実寺管内室町仮幕府に於いて近衛近衛尚道の娘と結婚式を挙げる。
その後、佐々木定頼は細川晴元と和睦する。将軍義晴も京へ戻る。
(桑実寺には3年間滞在)

六角佐々木氏の概要


桑実寺門


室町仮幕府跡


石段


本堂


参考
:佐々木六角氏の系譜(思文閣出版 近江源氏(弘文堂) 観音寺城と佐々木六角(滋賀県立安土城考古博物館)  
近江蒲生郡志(滋賀県蒲生郡役所)  野洲群史(滋賀県野洲群教育会) 近江史を歩く(京都新聞社)
地方別日本の名族8.近畿編(新人物往来社) 滋賀県の歴史散歩(山川出版社)
フリー百科事典(Wikipedia) 六角佐々木家(佐々木哲学校) 
宇多源氏 佐々貴一家流々名字之分系 (沙沙貴神社神主家蔵版)